TALKING MOON

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終わりなき「日本」は終わらない

nagame


押井守氏「コミュニケーションはいらない」を読む。

僕は、実は選挙というものに行ったことがない。
いわゆる世間の風潮としては、国民の権利として選挙に行くべき、といった感じがなんとなくあるので、そういった時期に差し掛かる度に、いつもなんとなく後ろめたい気持ちになる。

でも、自分の中の「なにか」が、確実に選挙なるものに行かせないのも事実。

そして、氏の本を読んで、その辺がかなり明確になった。

曰く。
「政治活動に参加するということは、今の日本の在り方を受け入れるということ」

やっと、かゆいところに手が届いたという感じ。

今は、かの大震災から一年も経つのに、原発の今後についての行く末がイマだに収束されていない。

押井氏も云っているが、考えてみれば、第二次大戦で原爆が日本に落とされたにもかかわらず、その事をきちんと総括しなかったばっかりに、ただの感情で、核を持つことは悪い(非核三原則)でも原発を持ってしまった、ということか。

だいたい、いろいろなことにおいてそうだけれど、僕達はそもそも核についていっぱしに議論出来る知識、資格があるのか?

いきなり話は飛ぶようではあるが、音楽というものは、感情に訴える手段であるとも言えるので、非核、とか、原発反対、とかいうプロパガンダに非常に使われやすい。
案の定、そういった音楽イベントは、国内でこの一年でもかなりあったんじゃないかな。

つい最近行った、群馬のイベント「SPACE SAFARI」は、比較的そういったプロパガンダに惑わされない?尖がったものだったけれど、それでも、その中のあるバンドは、歌詞の中にフクシマだとかオキナワだとかを入れていた。
そして、他の肝心の歌い言葉はアフリカ(だと思う)の言語という。日本人なのに。

そのイベントは、日本人として海外にも打って出ている、非常にオリジナリティに長けているバンドばかりという趣旨だったけれど。

でも、戦後からでも、日本を基盤として活動する音楽家達は、ベースとしての「日本」というオリジナリティ、ナショナリズムというものと、どう対峙してきたのか。

川畑文子という、日本の戦前のジャズシンガーは、厳密には日系三世だから、ある意味、アメリカ人が、日本語で歌っているのと同じである。
どの国も、その国の国民であるということは、有事の際はその国のために戦うということである。

だから氏は云っている。
在日外国人の参政権なんて、とんでもない話だと。

そんなところからでも考えないことには、僕は原発について、日本人としての音楽のオリジナリティについて、語れない。




※写真は群馬、ながめ余興場。「にせんねんもんだい」を待つの図






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